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すずろごと

偏見にまみれた140文字以上のついーと

ゲーム廃人はなにゆえ悪なのか

思考の整理棚

ゲームは1時間まで。

ゲームばっかりやってちゃだめだよ。

暴力ゲームをやっている子は現実世界でも乱暴をする。

 

などなど、ゲームにまつわる話でポジティブな話はほとんど聞かない。むしろ世の中ではゲームをするということはなかなかに嫌悪されている次第である。

 

ゲーム廃人を新聞やネットでは依存症とし、更生する必要を説く。

 

世の中には重度の廃人もいるのは確かだ。所謂引きこもりと呼ばれる人々はその筆頭であろう。日がな部屋に閉じこもり、家族ともろくに会話をしない。家から出ることもなければ、友人と会うことなんてましてやない、というか友人もいない。将来に何の期待もなければ、あるのは漠然とした生への不安だけ。何もやる気になれなくてただひたすらに画面にかじりついている。

・・・確かにここまで来るとそのサイクルから抜け出す必要がありそうだ。

まあでもそういう人たちには専門機関などに頼っていただいて、今回の話からはご退場頂こう。

 

今回話題にしたいのは、そこまでではないけれど、ゲームを兎角愛する廃人のこと。

 

自分の周りにもたくさんいた。し、いる。

ゲームで留年をするような、しかも2年も3年も留年をするような廃人が何人もいた。ちゃっかりストレートで卒業していく廃人ももちろんいた。

 

かなり名の通った大学で出会った人々である。すなわち、世間様から称賛していただけるような大学に通っている人々である。

 

その大学に入ったという一面だけでは世間から称賛されるが、ゲームを愛するという一面で世間から白い目で見られる。

 

なんとも忙しい評価である。

そして、その評価に、はたして個人はいるのだろうか。

 

ゲーム廃人は良くないという風潮の中で、人柄や知能などその他の要素はほとんど考慮されない。(本郷奏多の例を見る限り、外見はすべてを覆すようだけれど。)

 

人の評価とは、案外カテゴリーの評価の集まりでしかないのかもしれない。

ゲーム廃人、大学名、男、甘いもの好き、夜型、英語が喋れる、無口、25歳、など。その人の要素すべてがカテゴリーで、そのカテゴリーごとが持つ評価を寄せ集めてその人の評価が出来上がる。

そして、突出した良い評価がない限り、悪い評価に引っ張られがちで、また、自分の知る限りの要素だけで評価を構成しがちである。

例えばゲーム廃人はバツ、甘いもの好きは特に評価無し、英語が喋れるのは丸、イケメンは花丸みたいな。その評価基準は各人によりけりで。

ゲームを悪しとする人々にとっては、ゲーム廃人は余程の要素(イケメンとか)がなければ悪印象なのだ。

 

偶然か必然か、彼らの興味が向く先がゲームだっただけなのに。

ほれぼれするぐらいゲームが上手い人たちがいた。でも、ダメなのだ。

戦略ゲームやパズルゲームで頭を使いまくることだってある。でも、ダメなのだ。

 

興味が向く先が、得意なことが、数学だったら、物理だったら、英語だったら、美術だったら、音楽だったら、スポーツだったら。留学だったら、ボランティアだったら、インターンだったら。

向けられる目の温度は違っていただろう。大学名で受ける評価が証明しているように。

 

意識高く人を見下ろすことなんてなくても、御社に感謝なんて思ってもないことをぺらぺら喋るようなことがなくても、てかLINEやってる?って5分前からの知り合いに聞くようなことがなくても、(ないから?)社会には不適合なのだ。

 

社会に適合したものというのは、社会への貢献度、貢献の可能性が高いものを指すのだろう。社会の仕組みを良くしたり、生活を便利にしたり、人を感動させたりできるもの。

 

もちろんゲームにその可能性がないわけではない。でも、限られた相手、限られた場合であることは否めない。そしてその対象以外、すなわち多くの人々にとっては何の価値もないものになる。

 

だから、世間的に不適合とみなされるのだ。だから、その時間をもっとほかのことに使えばと言われるのだ。だから、何故ゲームなんかやるのかと問われるのだ。

 

留年した人もしなかった人も、共通することは、ほとんどみな就職をし、社会に出ていったことだ。

彼らは決して社会に背を向けていたわけではないのだ。たとえ社会が彼らのとある一面を認めなかったとしても。

そして彼らの多くは、多少あれども世の中に貢献していくだろう。たとえ社会が彼らのとある一面を冷たい目で見ていたとしても。

 

世間で良しとされることに興味を持てた人は幸いである。

世間で悪しとされることに興味を持った人は生きづらい。

 

アニメもまた然りかと。