はかば

しこうのくよう

君の名前で僕を呼んで

(だいぶ前に見て書きかけたまま放置していた感想文)

 

映画を見終わった後、私は何を感じて何を持ち帰れば良いのか分からなかった。ただ、あの手に、あの間に、あの顔に、覚えはあった。そのじれったさに、その行方も知らぬ気持に対して届く範囲に埋め合わせを求める気持ちに、覚えはあった。

 

巷で話題のBLやLGBTの議論に対して「どうしてそんなに特別視するんだい?」なんて嘲笑うかのような、名前のつかない普遍的な恋。僕は好きだけど君はきっと僕のことなんて眼中にないんだろう。みんなの君ではなくて僕を一番に気にして欲しいけどそんなこと言えるわけないし。他の子の話をしたら君が嫉妬してくれるといいのに。ねえ、どうして僕を避けるの?まさか君が僕を好きになってくれるなんてこんな幸せあって良いものか。本当に僕で良いのかい?そう、ただの恋。ただの恋なんだよ。

でもなんであんなに芸術的で、切ないんだろう。ただの恋だったはずなのに、どうして最後は行き場のないどうしようもなさが漂っているんだろう。

 

ところで、後からこの記事を読んで、もう一度映画を見たいと思った。

miyearnzzlabo.com

この映画は原作者の青年時代の弔いだったのかもしれないと思うと、途端に視点が宙に浮いた。俯瞰すると言ったものか。勿論本人が同性愛の経験を否定している以上勝手な妄想なんだけど。でも、この言葉が本当だとすると否定しているのは(本人の)同性愛の”経験”であって、(本人の)同性愛の”感情”ではないのがミソなのではないだろうか。

きっと原作者の純粋にどちらの性別も好きな少年時代がエリオで、周囲と比較したり周囲からどう思われるかに敏感だった時期がオリバー、そして父親は自分が欲しかった言葉をくれる人物であり原作者が今の社会に言いたいことなのではないかと思う。

 

二人は一夏を愛し合い、その後オリバーは婚約したんだと電話で告げる。2年間続いていたんだと言い訳がましく言うオリバーと、ショックで絶望の淵にたつエリオ。同一人物だと思うと、これが年の差なのかと、これが社会と触れたかどうかの違いなのかと、長年心を整理してきた違いなのかと、思った。同時に、オリバーは絶望の中で折り合いをつけながら人生を歩んできたという表れなのだろう。

エリオたちの暮らしは貴族的で、エリオは哲学家であり芸術家のような日々を過ごしている。エリオを純粋たらしめる所以がここにあり、それ故性別へのあるべき姿というものや葛藤がないのではないだろうか。だからこそ、理想は理想でしかなく理想では現実を渡っていけないと割り切るしかないオリバーとの差が、やるせない結末に繋がったのだろう。

 

 

これはゲイの可哀想な話なのかというと、私は他人事に思えなかった。現実にはシンデレラストーリーも白馬の王子様もなく、私たちは今いる環境と今持てる能力と財力の有効範囲の中で折り合いをつけて生きている。だからなんだという話なんだけど、なんとなくこう思い浮かんだ。

最初に言ったように何を感じて何を持ち帰れば良いのか分からなかったけれど、とりあえず、原作者が人生を振り返りそれぞれの年代の自分を描いた原作を、読んでみようと思う。