はかば

しこうのくよう

選ぶ

物生選択をする高校生を前にして、私は何を言えば良いのか分からなかった。特に行きたい方向があるわけではない、だから選択肢の多い物理を選ぼうと思う。それに対していいやんと言った。

そもそも特に学部を決めていないなら物理の方が安牌であるといったのは私だ。それは間違ってはいないはずだ。物理を取っていないと工学部に行けないけれど、生物を取っていないといけない学部は知る限りない。そもそもセンターや二次で生物は点の取りにくい科目と呼ばれている。だから物理を選ぶことになんの非合理性もない。

だけど彼は生物の方が好きだといった。

好きなものではなくこの方が良いのではないかと選んで行った先に、何が待ち受けているのだろう。

合理的な理由によりこのほうが良いという選び方は、選んでいるようで選んでいない。何か自分を納得させることのできる理由に委ねて決定させている。

その一つ一つの決定が間違っていたと言える事実はないし、そもそも間違っているわけではないだろう。何故なら間違いが少ない選択をしているわけだから。

でもそうして積み重ねていった先には、何をしていいのか分からないとか特に好きなものがないとか出会う事柄への感度の低さとかそういう境地が待っているのではないか。

自分で決めることは何が起きても誰のせいにもできないという責任を伴うし、小さな正解すら得れないかもしれない恐怖もある。

だけどそれは自分が自分の人生を歩む上で必要なリスクであり、その先で得られるものはかけがえのないリターンなのではないか。

自分で責任を持って選択していくということは、他の誰でもなく自分が生きているということなのではないだろうか。