はかば

しこうのくよう

ホロコースト:分断と蔑み、そして無自覚の先に待つもの

アウシュビッツ強制収容所に行ってきた。予習として『ホロコースト』(芝健介, 2008)という本を読んでいたので新たな大きな驚きはなく沈痛した気分にもならなかった。建物や建物跡が残るだけ、という特性もあるだろう。もちろん遺留品やいくらかの状況写真、収容者の写真、書類の数々もある。そして、生き残った方の証言もある。全てが重たいのは確かだ。この寒々としたここで残虐な日々が紡がれていたことを想像せずにはいられない。

ただ、本やガイドを通じて何よりも自分が感じたのは、もやもやとした焦燥だ。

あれは戦時下の特殊な状況だっと、過去の悲惨な出来事だと片付けるには、あまりに現代の様々な事柄に、普遍的な事柄に通じすぎている。

 

残虐非道なホロコーストヒトラーのまたは一部の国家中枢の人々の暴走だったのか?様々な説があれどもわたしはそうは思わない。例えば粉塵爆発は、粉が舞っているところに火が現れることで爆発する。粉があるだけでも舞うだけでも火があるだけでも爆発しない。粉があって粉が舞って火が現れることでようやく爆発する。太古の昔から続くユダヤ人に対する嫌悪(といった簡単な語ではないのだが)が蔑みや分断を通して強化され、敗戦後の鬱屈とした状況で自分達ではないどこかへの責任転嫁と一発解決を求める空気が流れるようになった。そういった過程を経て、ヒトラーやその周辺の過激な主義者達の台頭と独裁を許してしまったのではないか。そして気づいたときには誰も迫害を止められない、いや多くの人は気づくことすらできない状況になっていたのではないか。粉の出現→増量→舞い上がると着実に状況が整ったところに火が現れた。それまでだって幾度となく火は現れており、多くの場合は状況が整っていなかっただけだろう。

 

ユダヤ人を大量に射殺しガス殺し毒殺することは任意の任務だったにも関わらず、ほとんどの軍人が拒否をしなかったのは何故か。風俗街に行く部下達を諌めるほどの所長が虐殺現場のすぐそこに家を構え家族と住んでいたのは何故か。世界の最先端をいき各国から学びにくるほどの医療界に属する人達が麻酔も使わない人体実験を行っていたのは何故か。

初めは3割程度の議席しか持っていなかったナチ党が政権を掌握し独裁的に国を動かすことができたのは何故か。水晶の夜に眉を顰めていた市民たちがそれでもホロコーストを容認してしまったのは何故か。教養が高い国の人々がこの事態を積極的または消極的に推進していたのは何故か。

 

他者への見下し、嘲り、優生思想といったものが温床となって、排他的思考や排他的行動に繋がり、最後には人だと思わないようになる。しかしながらその見下しや嘲り、優生思想といったものが妥当性を帯びていることは決してない。自身を取り巻く状況への不平不満や自身の至らなさを、社会的弱者にぶつけているだけだ。そういったものは戦時中だけでなく平時でも散見される。現代でも。今でも。たくさん。

ヒトラーやナチ党や親衛隊だけが、一部の狂気じみた人達だけがホロコーストを担っていたわけではない。一般市民や一般軍人、本来普通と呼ばれる人達全員がホロコーストに加担していた。街角のヘイトスピーチや直接的な嫌がらせ。または、見過ごす、という方法で。

 

いま、世の中を見渡すと分断する言葉や蔑む言葉に溢れている。そしてそれらの発言を、思想や表現の自由として許されようとする。

「嗜好」や「利害」はある程度その人の主観といってよいだろう。しかし、「価値」は本質的に個人の主観を超えた次元を持っている。ある「価値」に基づく行動は、常にその社会的な「妥当性」を求める。「価値」の問題は主観の問題ではなく、社会的な問題である。(一部要約)

『自由とは何か』佐伯啓思, 2004, p.170-171.

何を言うのも個人の自由、というのは些か暴力すぎるのではないか。自分の発言を社会に投下するのであれば、それが何に繋がるのか、というところまで思いを馳せ責任を持たなければならない。個人の「嗜好」の表明が社会を揺るがす事態になることを、もっと深く受け止めなければならない。そして、「嗜好」や「利害」によって社会を揺るがすことは個人の自由ではない。既存の「価値」を変えていきたいならば適切に社会的合意を取って変えていかなくてはならない。それはヘイトスピーチでは決してない。

 

近年インターネットやSNSの普及に伴い、マイノリティや社会的弱者の存在が可視化されてきた。今までの世の中はマジョリティや社会的強者に適した社会構造だったが、それではいけないという風潮がある。だが、マイノリティや社会的弱者も等しく権利が認められ同様に生きていける世の中へしていこうとしたときに、民主主義の社会では過半数の同意が求められることもしばしばあり、また憲法改正となると2/3の賛成が必要となる。しかしマイノリティは数が少ないからマイノリティたるわけで、マジョリティ側にいる人の動きが重要な鍵となる。自分は困ってないからと他人事でいると現状は何も変わらない。または加速する。第二次世界大戦のドイツのように。「自分は何もしていない」ことは無罪ではなく、罪である。私達は出会う全ての物事に対して、事態と自分の立場・考えを自覚し続けないといけない。

 

きっともう次の粉が、舞い始めている。