はかば

しこうのくよう

タレンタイム

観終わったあと不安感に苛まれる作品がある。私は何を感じれば良かったのだろうか、どういう作品だと言えば良いのだろうか。私は感度が低いのかもしれないし私は言語能力が低いのかもしれない。私は観客たり得てるのだろうか。

タレンタイムを観たあと、よくあるいつもの、支えのない様な不安感を覚えた。私はちゃんと何かを汲み取れただろうか、と。タレンタイムはなにか劇的なことが起きるわけではない。人の生き死にや愛がふんだんに盛り込まれている一方で、どこか淡々と日々は過ぎていく。何も端的ではなく、割り切れないことだらけだ。でも、結局それが、日常なのだろう。そして私達は、日常を生きている。

 

私は初めて知った。マレーシアでは中華系とムスリムの間に大きな溝があることを。私は思い知った。最愛の人か大切な家族か、そう割り切れる話ではない決断が、すぐそばにあるかもしれないことを。私は思い出した。別れの時は我々に合わせてくれはしないことを。私達は気づかないといけない。分断の向こう側にいるのは人だということを。

 

タレンタイムは"人"と"知る"を中心にした話だったのではないかと思う。

最愛の人がいて大切な人がいてライバルがいて隣人がいる。その大事な人達の大事な人は自分には受け入れ難いかもしれないし、信じるモノが違う人もいるかもしれない。大事な人の大事な人をも大事にするには、心の整理がつかないかもしれない。自分が精一杯のときに他者にも心を砕けないかもしれない。

それでも忘れてはならないのは、他者もまた人であること、人は色んなものを抱えて生きていること、目に見える違いやカテゴリーだけで人を分かることはできないこと、なのではないか。

 

人と言うのはグラデーションだ。好きも嫌いも、興味のあるなしも、愛おしさだって0か100ではない。カテゴライズしたって100%その特徴に当てはまるわけでもないし、万人みな良いところもあれば悪いところもある。

あいつはああいうやつと決めつけるのではなく、あいつはあのカテゴリーの人だと見るのではなく、人にしっかり向き合ってグラデーションに彩られた姿を捉えて愛していきたい。

 

人を知って尊重する。それだけなのにそれがとても難しい。他者も人なのだと気づき、他者に思いを馳せ、他者を尊重する。それに気づいた人から、優しい歌を奏でることが出来るようになるのかもしれない。

 

そうして私達は歌いながら、悲しみも楽しみも内包して自分の道を歩いて行くのだろう。