はかば

しこうのくよう

昼下がり

誰もいなくなったこの部屋に、換気扇の音だけが静かに響く。

先ほどまで隣に座っていた事務員の木村さんも遅い昼食をとりに食堂へいき、用務員さんもいつものように見回りにいった。普段なら何かしらの用事で学生が出入りしているはずなのに、結界でも張られているかのようにみなガラス窓の向こうを素通りしていく。確かに木村さんが14時に営業終了を宣言した今維持費を払いに来る人はおらず、昼の帰宅ラッシュもとうに過ぎて荷物を受け取りに来る人もいないし、残食が少ない今日は炊事当番も放送をかけに来ない。

こういうときは本をじっくり読みたいと思っているのだが、視線は活字の間を泳ぎ些細な言葉かところところら連想ゲームのように彼方へ飛んでいきそこで砂の城を築く、そうやって考え事だけが捗るのが常だ。今日も愛犬という文字を見た瞬間に昔習っていたピアノの先生のメルちゃんを思い出し、きっともう亡くなったんだろうと思いを馳せたところから先日の友人との会話に引きずり込まれた。

 

先日、友人と飲んでいるときに死という話題になった。死とは永眠という言葉がまさにすべてを表していて、永遠に眠ることなんだ、という内容だった。普段の眠りも眠る瞬間や眠っているときに寝ていたと自覚することはなく、起きた時にようやく寝ていたことを知ることができる。死というものは、その、起きるというフェーズが永遠に訪れないことであると、いうことだった。

夢もまた、夢を見ているときに夢だと自覚するのは稀で、起きた時にようやく現実と相対することで夢を見ていたことを自覚することができる。

死というのは起きることなく眠り続けることや夢を見続けることにより、永遠にその事実に気づかないものなのかもしれない。この場合天国というのは夢の世界と言い換えても差し支えがないだろう。よく生死を彷徨った人が見たという三途の川も、この夢の世界だ。

自分が眠る今が死なのか一時的な眠りなのか分からない(そもそも何も自覚がない)わけなのだが、それと同様に自分が過ごす今が夢ではないと、どうやって気づけばよいのだろうか。起きたその世界が第二の夢なのか現実なのか誰が分かると言うのだろうか。我々は永遠に自分が死んでいるか生きているか確証のないまま死んでいく。そして死んだということにも気づかない。たった一回の人生をどう生きるかと問いながら、実際いま生きているかどうかもわからない。そういうものなのだろう。

 

カチッと音がして見上げると時計がちょうど14時を指したところだった。

本のページはいつものように、読んだ覚えのあるところより随分先を開いていた。