すずろごと

偏見にまみれた140文字以上のついーと

良い客でいるか、悪い客でいるか

店員にとって良い客とは。

 

店員さんに愛想よくする。

店員さんにありがとうを言う。

少し待つぐらい気にしない。

間違いがあっても怒らない。

 

店員にとって悪い客とは。

 

店員さんに横柄になる。

店員さんに暴言を吐く。

少し待たされただけでも烈火のごとく怒る。

間違いがあったら烈火のごとく怒る。

無理難題を要求する。

 

 

店員から、前者は好かれ、後者は嫌われる。

 

さて、問題です。

どちらが得をするでしょうか?

 

好かれている前者?

来てくれたときは嬉しいもんなー

 

でも残念ながら、得をするのは、後者なのだ。

前者に気持ちよく利用してもらいたいけれども、細心の注意を払う相手は後者。

前者にサービスをしたいけれども、多くサービスを受けるのは無理難題を要求する後者。

 

 

じゃあみんな後者になっちゃうんじゃないの?

前者ってただの阿呆じゃない?

 

前者でいるか、後者でいるか。

それを決めるのは損得勘定ではなく、自分の矜持。

 

私はそれでも、前者でありたい。

 

忘れられない空気感

小学生の夏休みの感覚を、未だに忘れられずにいる。

終業式の日は何かが待ち受けているかのように、持って帰るたくさんの荷物と同じくらいのワクワクがあった。

むしむしした暑さ、じーじーと鳴くセミ。

かき氷に抹茶の粉と小豆をのせるのが好き。

座布団の上で昼寝をしたらいつの間にか日が傾いていて。

じりじりと照らす太陽の下を自転車で走るだけでも、いつもと違う身軽さがあった。

夏休みも残りわずかになって、あわてて夏休み中の一行日記と天気を捻り出すのも、今思えば醍醐味だったのかも。

 

まだ暗いうちに起きる修学旅行の朝。

眠さが勝りながらも高揚感が見え隠れ。

 

クリスマスの朝。

サンタさんが息をひそめているのか、いつもよりシンとした朝。

 

8/6の朝。

ちょっと気怠さが漂い、みんないつもより少し静かな気がする。

サイレンが鳴るまで落ち着かない、気持ちだけのタイムスリップ。

 

台風の日。

なぜかクッキーを作ることが恒例になっていた。

世界に一軒だけになったかのように感じる世界でオーブンに灯りをともす。

外すごいねぇといいながらつまむクッキーはいつもより上手くできた気がした。

青春

制服で二人乗りして

帰り道にコンビニでアイスを買って

一口もらって

夕焼け見てきれいだねって言い合って

たわいもない電話をして

おやすみって言ったあと切れなくて笑いあう

 

ああ、青春だな

自分の通らなかった青春だな

とおもう

 

でも、きっと、そこにいたら青春だなんて微塵も思わないんだろう

そういうことが青春なのかと思う

 

青春というのはその年のときにすると一番輝く出来事をいうのかもしれない

 

幼稚園の時に結婚を誓ったり

小学生の時に二人だけでお出かけしたり

中学生の時に夜遅くまで電話したり

高校生の時に制服デートをしたり

大学生の時に一緒に授業を受けたり

社会人の時に会社帰りに旅行にいったり

 

だけじゃなくて

 

幼稚園の時におもちゃを取り合うことだって

小学生の時に野山を駆け回ることも

中学生の時に保健室でサボることも

高校生の時に放課後友達と喋りたおすことも

大学生の時に深夜のコンビニに行くことも

社会人で新幹線でビール飲むことだって

 

青春なんだとおもう

 

ほとんどが他の年代でもできることだけど、でもなんか違うんだよなあ

そのときにやるから青春なんだよなあ

 

失った青春はもう手にできない

中高生のときにもっとこうやっとけば良かったなんてよく思うから

自分は青春ゾンビだなっておもう

 

ああ、いまの青春は思う存分満喫したいものだね

八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。 - 天沢夏月

「俺はどうしたらいい、透子。」

 

四年前の夏のあの日から、ただ時が過ぎてゆく毎日。

彼女の死を清算できず、逃げるように東京に出たまま故郷に足を踏み入れるきっかけを失っていた。

 

線香をあげてやれよ。との友人からのメールで2年振りに帰ってきた町。

廃れた駅前のロッカー、何も変わらない透子の部屋。

 

髪に漂うせっけんの香り、キラキラしたビー玉みたいな瞳、からからと笑う声、華奢な体に触れた感触。

ソーダ味のアイス、偽ラムネ。

交換ノート。

 

炭酸のように湧き出てくる彼女の残り香。

断ち切ろうとしていた未練は、その努力をあざ笑うかのように、故郷に帰った途端あっという間に強く結びなおされた。

 

「あなたは、誰ですか?」

 

4年前に片翼を失った交換ノートは、ページが進むことはもうない、はずだった。

止まった時間に途方に暮れていたとき、うっかり書きこんだ問いに来るはずもない答えが書き込まれた。

4年前の俺が知らない秘密のやりとりが、始まる。

 

4年後の俺とのやりとりの傍らで、彼女は4年前の俺に得意気にタイムトラベルの話をする。

タイムパラドクスがあるから無理だと言われているタイムトラベルも、抜け道がいくつかあるの。

パラレルワールド説、タイムトラベルも歴史に織り込まれている説、過去不可変説。

 

彼女は、その話をしながら、何を思っていたのだろう。

自分の未来に、どう思いを馳せていたのだろう。

 

 

時空のゆがみが生じるストーリーがきれいに環を描く切ないお話。

こんなにも優しい、世界の終わりかた - 市川拓司

「優しくないね」

「うん、優しくない」

 

この世界で穏やかに生きるのは難しい。

心の趣くままに生きるのは難しい。

多くを望まないことを許してくれない。

ぶきっちょには厳しい世界だ。

 

世間からはみ出た、独自の世界をもつ男の子たち

クラスの男子の視線の先にいる、きれいなおとなしい女の子

はたから見たら一緒にいるなんて信じれない、信じたくないような3人。

 

はみ出し者たちは社会から認められず、社会が気に入るその女の子だけが寄り添ってくれる。

女の子もまた、気に入ってくれる社会に居場所を見いだせず、そのはみ出し者たちだけが心の支え。

 

彼らを取り巻く世界が人々が、荒野のようにすさんでいたり、吹雪のように寒々していたり、日照りのように殺伐としていても、彼らは優しい、美しい世界に生きている。

どれだけ彼らに優しくない世界だったとしても、彼らは精いっぱい、自分らしく、そして優しさを抱いて生きている。

 

きっと神様は彼らのような存在なのだ。

世界から優しさがなくなる前に、この世界を優しさでいっぱいにして留めておこうと思ったに違いない。

 

優しさで溢れた世界では、みな穏やかに最期を迎える。

愛する人を思い、うやむやにしていた未練を拾いあげる。

無限にあると思っていた時間はもともと多くなかったのだと、いつかなどなかったのだと気づく。

 

お金や名声や優位性なんて、世界の終焉にあたって無価値である。

世界が終わるとき、愛だけが唯一の真実となる。

 

彼らは世界が優しさで溢れるまで、極寒の世界を生ききった。

ぼくの親友の最後の言葉。

「ぼくはぼくらしく生きるために戦ったよ。誰にもぼくを変えさせはしなかった。ぼくの魂には傷ひとつついていない。」

世間がどれだけ彼を抑え込もうとも、彼は彼にしか作れない彼だけの人生を歩み、優しい世界に抱かれて眠りについた。

 

戦争が起きることもなく、隕石が落ちてくることもなく、宇宙人が攻め込んでくることもなく、天変地異が起きることもない。

無人のコンビニではレジカウンターにお金がたまっていき、道行く人は互いに助け合う。

 

こんなにも優しい、世界の終わりかたがあるなんて。

 

 

p.s. はみ出し者のぼくの親友も、はみ出し者のぼくの父さんも、とっても良いこと言うんだよね。人としての面白さ(深み)って、きっとコミュニケーション力ではなくて内観力なんだろうな。

大人っぽさは大人にはだせない

大人っぽいね という言葉は真の大人には使わない。

子供みたいな笑顔 という形容は子供には使わない。

こういう場合、っぽい・みたい という言葉は何かに似ているという意味で使われる。

 

では、っぽい・みたいと言われるものは、オリジナルではない、偽物なんだろうか?

 

いや、それはどうだろう。

 

大人っぽさは大人には出せないし、子供みたいな笑顔は子供には作れない。

ということは、それはもう、偽物ではなくて、オリジナル。珍しい個性なんじゃないかな。

 

大人っぽさは多くの子供には出せないから、大人+っぽいという言葉が使われている。

子供みたいな笑顔は多くの大人には作れないから、子供+みたいという言葉が使われている。

 

もしみんなに共通することなら、大人とか子供とか限定した言葉は使われないし、大人の中にもたくさん存在することなら、わざわざ子供に似ているなんて表現はしない。

ならば、大人っぽさは限られた子供にしか出せないもので、子供みたいな笑顔は限られた大人にしか作れない、個性の一つなんじゃないか。

 

ボーイッシュな女の子もかわいい男の子も、男装女子も男の娘も、おっさん幼稚園児も童心おじさんも、みーんな個性。

劣化版とか真似っことかではなくて、その人にしか出来ないオリジナル。

貧困

これから毎月に5万円ずつ支給いたします。

 

という幸運が舞い込んだとして、現実的に何をする?

 

貯金する、回らない寿司を食べる、遊園地に行く、服を買う。

数か月分を合わせて旅行に行くのも良いな。カメラも買おう。

 

とても前向きな使い道である。

 

だけど、もしいま、かつかつな生活をしていたら。

 

壊れたきり歩いていたけど自転車欲しいな。ケトルがあったら便利そうだなと思ってたんだよね。擦り切れそうな服買い替えようかなあ。もやし以外の野菜も買えるぜ。本屋で新品の本買っちゃう?今日はエアコン付けようか。

 

生活水準をフツーまでひきあげる為に、お金はまわされる。

0からプラスではない。プラスから更なるプラスではない。マイナスから出来る限り0へ近づくためにお金が必要なのだ。

 

生きていけない程ではないけど、たくさんの小さな我慢を積み重ねて生活をしてきた。だましだまし物を使ってきた。壊れたものはそれっきりのこともある。

まずはそのたくさんの小さな我慢の解消や優先順位は低いけどあったら便利なものにお金は消えていくだろう。

 

ぱっと見フツーの生活と変わらなくても、貧困というのはひげ根のように巣食っている。はたから見て貧困だとわかる方が珍しいのだ。

 

そして、はたからは分からないからこそ、貧困は大変なのだ。

 

普段は切り詰めた生活をしていても、どうしても譲れない線だけはお金を出す。どうしても欲しいものは購入する。

それは人によっては、旅行だったり、ブランド品だったり、回らない寿司だったり様々だ。

恒常的にお金を使っているわけではなくて、ごくごくたまに、これだけはと決めてお金を出す。

 

でもそれを人々は、贅沢だという。お金に困っていないじゃないかという。もしも本当に困っているならそんなことにお金を使わなければいいじゃないかという。

 

これはモチベーションである。モチベーションを高めるものではない。ギリギリのところでモチベーションを保つものである。

 

不幸を醸し出すのではなく、力強く前向きに生きようと、必死につかむ藁である。

いや、藁なんて流れていないから、自分で蒔く藁である。

 

これさえ失って、何を支えに生きろというのだろうか。

ゆとりなく生きている人にとって、心無い言葉は、視線は、扱いは、鋭利すぎる。

 

貧乏人らしく見えないと、不幸な存在であろうとしないと、憐れむ対象となろうとしないと、思いやれないなんて、

どれだけ横暴なのだろう。