すずろごと

偏見にまみれた140文字以上のついーと

忘れられない空気感

小学生の夏休みの感覚を、未だに忘れられずにいる。

終業式の日は何かが待ち受けているかのように、持って帰るたくさんの荷物と同じくらいのワクワクがあった。

むしむしした暑さ、じーじーと鳴くセミ。

かき氷に抹茶の粉と小豆をのせるのが好き。

座布団の上で昼寝をしたらいつの間にか日が傾いていて。

じりじりと照らす太陽の下を自転車で走るだけでも、いつもと違う身軽さがあった。

夏休みも残りわずかになって、あわてて夏休み中の一行日記と天気を捻り出すのも、今思えば醍醐味だったのかも。

 

まだ暗いうちに起きる修学旅行の朝。

眠さが勝りながらも高揚感が見え隠れ。

 

クリスマスの朝。

サンタさんが息をひそめているのか、いつもよりシンとした朝。

 

8/6の朝。

ちょっと気怠さが漂い、みんないつもより少し静かな気がする。

サイレンが鳴るまで落ち着かない、気持ちだけのタイムスリップ。

 

台風の日。

なぜかクッキーを作ることが恒例になっていた。

世界に一軒だけになったかのように感じる世界でオーブンに灯りをともす。

外すごいねぇといいながらつまむクッキーはいつもより上手くできた気がした。

青春

制服で二人乗りして

帰り道にコンビニでアイスを買って

一口もらって

夕焼け見てきれいだねって言い合って

たわいもない電話をして

おやすみって言ったあと切れなくて笑いあう

 

ああ、青春だな

自分の通らなかった青春だな

とおもう

 

でも、きっと、そこにいたら青春だなんて微塵も思わないんだろう

そういうことが青春なのかと思う

 

青春というのはその年のときにすると一番輝く出来事をいうのかもしれない

 

幼稚園の時に結婚を誓ったり

小学生の時に二人だけでお出かけしたり

中学生の時に夜遅くまで電話したり

高校生の時に制服デートをしたり

大学生の時に一緒に授業を受けたり

社会人の時に会社帰りに旅行にいったり

 

だけじゃなくて

 

幼稚園の時におもちゃを取り合うことだって

小学生の時に野山を駆け回ることも

中学生の時に保健室でサボることも

高校生の時に放課後友達と喋りたおすことも

大学生の時に深夜のコンビニに行くことも

社会人で新幹線でビール飲むことだって

 

青春なんだとおもう

 

ほとんどが他の年代でもできることだけど、でもなんか違うんだよなあ

そのときにやるから青春なんだよなあ

 

失った青春はもう手にできない

中高生のときにもっとこうやっとけば良かったなんてよく思うから

自分は青春ゾンビだなっておもう

 

ああ、いまの青春は思う存分満喫したいものだね

八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。 - 天沢夏月

「俺はどうしたらいい、透子。」

 

四年前の夏のあの日から、ただ時が過ぎてゆく毎日。

彼女の死を清算できず、逃げるように東京に出たまま故郷に足を踏み入れるきっかけを失っていた。

 

線香をあげてやれよ。との友人からのメールで2年振りに帰ってきた町。

廃れた駅前のロッカー、何も変わらない透子の部屋。

 

髪に漂うせっけんの香り、キラキラしたビー玉みたいな瞳、からからと笑う声、華奢な体に触れた感触。

ソーダ味のアイス、偽ラムネ。

交換ノート。

 

炭酸のように湧き出てくる彼女の残り香。

断ち切ろうとしていた未練は、その努力をあざ笑うかのように、故郷に帰った途端あっという間に強く結びなおされた。

 

「あなたは、誰ですか?」

 

4年前に片翼を失った交換ノートは、ページが進むことはもうない、はずだった。

止まった時間に途方に暮れていたとき、うっかり書きこんだ問いに来るはずもない答えが書き込まれた。

4年前の俺が知らない秘密のやりとりが、始まる。

 

4年後の俺とのやりとりの傍らで、彼女は4年前の俺に得意気にタイムトラベルの話をする。

タイムパラドクスがあるから無理だと言われているタイムトラベルも、抜け道がいくつかあるの。

パラレルワールド説、タイムトラベルも歴史に織り込まれている説、過去不可変説。

 

彼女は、その話をしながら、何を思っていたのだろう。

自分の未来に、どう思いを馳せていたのだろう。

 

 

時空のゆがみが生じるストーリーがきれいに環を描く切ないお話。

こんなにも優しい、世界の終わりかた - 市川拓司

「優しくないね」

「うん、優しくない」

 

この世界で穏やかに生きるのは難しい。

心の趣くままに生きるのは難しい。

多くを望まないことを許してくれない。

ぶきっちょには厳しい世界だ。

 

世間からはみ出た、独自の世界をもつ男の子たち

クラスの男子の視線の先にいる、きれいなおとなしい女の子

はたから見たら一緒にいるなんて信じれない、信じたくないような3人。

 

はみ出し者たちは社会から認められず、社会が気に入るその女の子だけが寄り添ってくれる。

女の子もまた、気に入ってくれる社会に居場所を見いだせず、そのはみ出し者たちだけが心の支え。

 

彼らを取り巻く世界が人々が、荒野のようにすさんでいたり、吹雪のように寒々していたり、日照りのように殺伐としていても、彼らは優しい、美しい世界に生きている。

どれだけ彼らに優しくない世界だったとしても、彼らは精いっぱい、自分らしく、そして優しさを抱いて生きている。

 

きっと神様は彼らのような存在なのだ。

世界から優しさがなくなる前に、この世界を優しさでいっぱいにして留めておこうと思ったに違いない。

 

優しさで溢れた世界では、みな穏やかに最期を迎える。

愛する人を思い、うやむやにしていた未練を拾いあげる。

無限にあると思っていた時間はもともと多くなかったのだと、いつかなどなかったのだと気づく。

 

お金や名声や優位性なんて、世界の終焉にあたって無価値である。

世界が終わるとき、愛だけが唯一の真実となる。

 

彼らは世界が優しさで溢れるまで、極寒の世界を生ききった。

ぼくの親友の最後の言葉。

「ぼくはぼくらしく生きるために戦ったよ。誰にもぼくを変えさせはしなかった。ぼくの魂には傷ひとつついていない。」

世間がどれだけ彼を抑え込もうとも、彼は彼にしか作れない彼だけの人生を歩み、優しい世界に抱かれて眠りについた。

 

戦争が起きることもなく、隕石が落ちてくることもなく、宇宙人が攻め込んでくることもなく、天変地異が起きることもない。

無人のコンビニではレジカウンターにお金がたまっていき、道行く人は互いに助け合う。

 

こんなにも優しい、世界の終わりかたがあるなんて。

 

 

p.s. はみ出し者のぼくの親友も、はみ出し者のぼくの父さんも、とっても良いこと言うんだよね。人としての面白さ(深み)って、きっとコミュニケーション力ではなくて内観力なんだろうな。

大人っぽさは大人にはだせない

大人っぽいね という言葉は真の大人には使わない。

子供みたいな笑顔 という形容は子供には使わない。

こういう場合、っぽい・みたい という言葉は何かに似ているという意味で使われる。

 

では、っぽい・みたいと言われるものは、オリジナルではない、偽物なんだろうか?

 

いや、それはどうだろう。

 

大人っぽさは大人には出せないし、子供みたいな笑顔は子供には作れない。

ということは、それはもう、偽物ではなくて、オリジナル。珍しい個性なんじゃないかな。

 

大人っぽさは多くの子供には出せないから、大人+っぽいという言葉が使われている。

子供みたいな笑顔は多くの大人には作れないから、子供+みたいという言葉が使われている。

 

もしみんなに共通することなら、大人とか子供とか限定した言葉は使われないし、大人の中にもたくさん存在することなら、わざわざ子供に似ているなんて表現はしない。

ならば、大人っぽさは限られた子供にしか出せないもので、子供みたいな笑顔は限られた大人にしか作れない、個性の一つなんじゃないか。

 

ボーイッシュな女の子もかわいい男の子も、男装女子も男の娘も、おっさん幼稚園児も童心おじさんも、みーんな個性。

劣化版とか真似っことかではなくて、その人にしか出来ないオリジナル。

貧困

これから毎月に5万円ずつ支給いたします。

 

という幸運が舞い込んだとして、現実的に何をする?

 

貯金する、回らない寿司を食べる、遊園地に行く、服を買う。

数か月分を合わせて旅行に行くのも良いな。カメラも買おう。

 

とても前向きな使い道である。

 

だけど、もしいま、かつかつな生活をしていたら。

 

壊れたきり歩いていたけど自転車欲しいな。ケトルがあったら便利そうだなと思ってたんだよね。擦り切れそうな服買い替えようかなあ。もやし以外の野菜も買えるぜ。本屋で新品の本買っちゃう?今日はエアコン付けようか。

 

生活水準をフツーまでひきあげる為に、お金はまわされる。

0からプラスではない。プラスから更なるプラスではない。マイナスから出来る限り0へ近づくためにお金が必要なのだ。

 

生きていけない程ではないけど、たくさんの小さな我慢を積み重ねて生活をしてきた。だましだまし物を使ってきた。壊れたものはそれっきりのこともある。

まずはそのたくさんの小さな我慢の解消や優先順位は低いけどあったら便利なものにお金は消えていくだろう。

 

ぱっと見フツーの生活と変わらなくても、貧困というのはひげ根のように巣食っている。はたから見て貧困だとわかる方が珍しいのだ。

 

そして、はたからは分からないからこそ、貧困は大変なのだ。

 

普段は切り詰めた生活をしていても、どうしても譲れない線だけはお金を出す。どうしても欲しいものは購入する。

それは人によっては、旅行だったり、ブランド品だったり、回らない寿司だったり様々だ。

恒常的にお金を使っているわけではなくて、ごくごくたまに、これだけはと決めてお金を出す。

 

でもそれを人々は、贅沢だという。お金に困っていないじゃないかという。もしも本当に困っているならそんなことにお金を使わなければいいじゃないかという。

 

これはモチベーションである。モチベーションを高めるものではない。ギリギリのところでモチベーションを保つものである。

 

不幸を醸し出すのではなく、力強く前向きに生きようと、必死につかむ藁である。

いや、藁なんて流れていないから、自分で蒔く藁である。

 

これさえ失って、何を支えに生きろというのだろうか。

ゆとりなく生きている人にとって、心無い言葉は、視線は、扱いは、鋭利すぎる。

 

貧乏人らしく見えないと、不幸な存在であろうとしないと、憐れむ対象となろうとしないと、思いやれないなんて、

どれだけ横暴なのだろう。

ゲーム廃人はなにゆえ悪なのか

ゲームは1時間まで。

ゲームばっかりやってちゃだめだよ。

暴力ゲームをやっている子は現実世界でも乱暴をする。

 

などなど、ゲームにまつわる話でポジティブな話はほとんど聞かない。むしろ世の中ではゲームをするということはなかなかに嫌悪されている次第である。

 

ゲーム廃人を新聞やネットでは依存症とし、更生する必要を説く。

 

世の中には重度の廃人もいるのは確かだ。所謂引きこもりと呼ばれる人々はその筆頭であろう。日がな部屋に閉じこもり、家族ともろくに会話をしない。家から出ることもなければ、友人と会うことなんてましてやない、というか友人もいない。将来に何の期待もなければ、あるのは漠然とした生への不安だけ。何もやる気になれなくてただひたすらに画面にかじりついている。

・・・確かにここまで来るとそのサイクルから抜け出す必要がありそうだ。

まあでもそういう人たちには専門機関などに頼っていただいて、今回の話からはご退場頂こう。

 

今回話題にしたいのは、そこまでではないけれど、ゲームを兎角愛する廃人のこと。

 

自分の周りにもたくさんいた。し、いる。

ゲームで留年をするような、しかも2年も3年も留年をするような廃人が何人もいた。ちゃっかりストレートで卒業していく廃人ももちろんいた。

 

かなり名の通った大学で出会った人々である。すなわち、世間様から称賛していただけるような大学に通っている人々である。

 

その大学に入ったという一面だけでは世間から称賛されるが、ゲームを愛するという一面で世間から白い目で見られる。

 

なんとも忙しい評価である。

そして、その評価に、はたして個人はいるのだろうか。

 

ゲーム廃人は良くないという風潮の中で、人柄や知能などその他の要素はほとんど考慮されない。(本○奏多の例を見る限り、外見はすべてを覆すようだけれど。)

 

人の評価とは、案外カテゴリーの評価の集まりでしかないのかもしれない。

ゲーム廃人、大学名、男、甘いもの好き、夜型、英語が喋れる、無口、25歳、など。その人の要素すべてがカテゴリーで、そのカテゴリーごとが持つ評価を寄せ集めてその人の評価が出来上がる。

そして、突出した良い評価がない限り、悪い評価に引っ張られがちで、また、自分の知る限りの要素だけで評価を構成しがちである。

例えばゲーム廃人はバツ、甘いもの好きは特に評価無し、英語が喋れるのは丸、イケメンは花丸みたいな。その評価基準は各人によりけりで。

ゲームを悪しとする人々にとっては、ゲーム廃人は余程の要素(イケメンとか)がなければ悪印象なのだ。

 

偶然か必然か、彼らの興味が向く先がゲームだっただけなのに。

ほれぼれするぐらいゲームが上手い人たちがいた。でも、ダメなのだ。

戦略ゲームやパズルゲームで頭を使いまくることだってある。でも、ダメなのだ。

 

興味が向く先が、得意なことが、数学だったら、物理だったら、英語だったら、美術だったら、音楽だったら、スポーツだったら。留学だったら、ボランティアだったら、インターンだったら。

向けられる目の温度は違っていただろう。大学名で受ける評価が証明しているように。

 

意識高く人を見下ろすことなんてなくても、御社に感謝なんて思ってもないことをぺらぺら喋るようなことがなくても、てかLINEやってる?って5分前からの知り合いに聞くようなことがなくても、(ないから?)社会には不適合なのだ。

 

社会に適合したものというのは、社会への貢献度、貢献の可能性が高いものを指すのだろう。社会の仕組みを良くしたり、生活を便利にしたり、人を感動させたりできるもの。

 

もちろんゲームにその可能性がないわけではない。でも、限られた相手、限られた場合であることは否めない。そしてその対象以外、すなわち多くの人々にとっては何の価値もないものになる。

 

だから、世間的に不適合とみなされるのだ。だから、その時間をもっとほかのことに使えばと言われるのだ。だから、何故ゲームなんかやるのかと問われるのだ。

 

留年した人もしなかった人も、共通することは、ほとんどみな就職をし、社会に出ていったことだ。

彼らは決して社会に背を向けていたわけではないのだ。たとえ社会が彼らのとある一面を認めなかったとしても。

そして彼らの多くは、多少あれども世の中に貢献していくだろう。たとえ社会が彼らのとある一面を冷たい目で見ていたとしても。

 

世間で良しとされることに興味を持てた人は幸いである。

世間で悪しとされることに興味を持った人は生きづらい。

 

それはゲームに限った話ではなく、世の中に溢れた話だろう。

けれど、マイノリティゆえ、ほとんどの人は、私も含めて、存在にすら気づいていない。