すずろごと

偏見にまみれた140文字以上のついーと

齢25、私は人生レベルが2になった

携帯電話を変える機に、過去の写真を見返した。あまりにも見てられない写真がだらけでびっくりした。何がいけないんだろう、たぶん髪型。めちゃくちゃうっとうしい。

冷静に過去を振り返ってみると、まず鏡を見てこなかった。小学生のときに鏡を見た覚えはないし、中高生もできる限り寝ることに必死、大学生では複数人部屋の寮には鏡があるけど一時期一人暮らしをしていた時に鏡は置いてなかった(ユニットバスの洗面鏡はある)。

 

小学生の時に一部がお洒落に興味を持ちはじめたとき、私は親戚のおさがりを着て野山を駆け巡っていた。中学生高校生とお洒落のステップアップをし化粧やワックスといったものに手を出し街へ繰り出していく中、私はフリーセルやモンハン2Gにいそしんでいた。大学生になって完璧装備のキラキラしたみんなの中で、、、私は何をしていたのだろう。いや、いろんなことはした。生活費を稼がないといけなかったからバイトで忙しかったし、旅行もそれなりに行ったし、サークルもやってたし、最短年限で出れる程度には勉強だってしたし、飲み会もそれなりにあったし、寮生活もエンジョイしてた。

でも、そう、書いてわかるように客観的視線なんてものは私の中になかった。

 

太ったときも周りにどうしたやばいぞと言われていたりしたけど、そうかー?まあズボンきついわーぐらいだった(特に自転車漕ぐときの膝の裏あたり)。でも、いまなら言える。やばいぞおまえ。なぜいけると思っていたのか。就活の写真もそう。汝に問おう、それで恥ずかしくないのか。いやまあ恥ずかしくなかったわけではなく、まあいっかこんなもんだろうという自己肯定力の低さも一つの理由でもある。し、いまさらどうしろってみたいなHowToの知らなさも大きい。就活の写真って何年前やとなるかもしれないけど、これがまた半年前の話である。

最近はワックスを付け始めた。こんな報告なぜ25歳でやっているのか分からないと思うが、私にも分からない。みんなが早ければ小学生や中学生、どれだけ遅くても大学2回生までに済ませているようなことを、私は25歳でやっているのだ。

 

ここへきてお前はどんな服を着ているのかと気になってきたかと思うが、想像通り、何年も前から変わらない数パターンを着まわすスタイルだ。よくよく思い出すと高校生の時に買ったズボンなんかを未だに穿いていて、そろそろ破れそう。それも最近は服を買うこともあるけど、とりあえずユニクロ。シンプルな服がたくさんあるからとても重宝している。最高。ちなみにお洒落さんたちの言う「えー、ユニクロって良いよ~。これもユニクロ☆」と同次元に見ないでほしい。見てないと思うけど。あんなスーパーウルトラ活用できてる勢は本当に人生何回目なんだろうとよく考える。

そう、私は人生1回目だ。みんなは人生何回目なんだろう。どうして小学生のうちから人から見られる自分なんてものを想像できるんだ。私は25年かかったぞ。いや、いまでも不十分すぎる。たぶん、ようやくみんなの小学生並の意識を手に入れられたところな気がする。

 

この前、自分の好きな方向性の格好をして、ワックスで髪を整えた姿を後輩に格好良いと褒められた。嬉しかった。特に用事はなかったけど誰かに会いたくなった(誰というのは特になく、残念ながら突然の恋パートではない)。ああ、格好を整えるって大事だなと思った。

自分が何もしていないのも、世の中には素敵な人が溢れていることも知っているから、普段褒められてもまともに受け取れなかったけど、自分が良いなと思う姿をしていれば褒め言葉も素直に受け取れる。それに、大げさかもしれないけどなんでもない一日がいつもより光っていた。そんな日が増えるってさいこうだなと思う。とか言いながら今日も数パターンの一つを手に取るわけなのだが。

 

そんなかんじで世の中の人々の後ろ姿をぎりぎり捉えられるところまでは到達できた私だけども、それでも世の中の人々とは天と地の差もある場所にいる。

何が違うって何もかも違っててもはや分からない。お洒落研究やセットの時間は遊びや睡眠に充てられてるし、おっさんだる履いてるし、でも問題はそういう言語化できている部分ではなく分からない部分なんだと思う。

で、その分からない部分に共通するところが「人からどう見られたいかという意識の低さ」なのではないかと思ってきた。

 

モテたくないといえば嘘になるが、モテたいかと言われればうーんそのままでモテるチーとキャラにはなりたいけど頑張るほどではないかなぐらい。別にモテる奴を目指せとは思わないけれど、これは思っている以上に根が深い問題なのではないかと最近は思う。

そう、全く頑張らなくてもいいんだよね。全く客観視の必要がない。だから褒められてもまともに受け取れないし、見向きもされなくても仕方ないって思えて微妙に傷つくだけで済むからいっかなみたいな。そうして自己肯定感がゆるやかに下がって何したところでなあという負のスパイラルに陥る。

そうしてありのままの自分を見てなんて馬鹿なことを言い始めるのだ。そんな努力しないありのままの姿は、自分程度でも釣り合うという思考回路の自己肯定力低めの人をよびよせる。こうして居心地の良いぬるま湯が拡大していき抜け出せなくなっていく。

 

人からどう見られたいかという意識というものは、どう生きたいかに関わらず大切なものなのではないかと思う。回りまわって自己肯定力を高めるものであり、その自己肯定力というのは人を魅力的にするし人生の岐路の決定を前向きにしてくれるし日々を楽しくしてくれるものでもある。いきすぎたこの意識は毒になるけども、適切な量は持たなくては。

こう気づいたとき、私の人生レベルは2になった気がした。