とんび - 重松清
この話には一貫して”普通”の家族の像はほとんど描かれない。
父がいて、母がいて、子供がいる家庭。
親を知らずに育ったヤスさんと同じく妻の美佐子さん。
二人の息子アキラが幼いころに美佐子さんは亡くなってしまう。
周囲をみても、娘に母と認識される前に出戻ったたえ子ねえちゃんや子供のいない照雲夫婦など、”普通”の家族像を描き出す面々はいない。
出てくるのはただ二組だけ。
ヤスさんの幼馴染の照雲一家と、アキラが怪我をさせる後輩一家。
照雲とは兄弟のように遊び、悪さをし、その父海雲和尚に一緒に大目玉をくらう、そんな一番身近で家族像を与えてくれた一家。
アキラが怪我をさせた後輩一家は、きちんとした職についてそうな父親と専業主婦であろう母親といった、きっとまさに”普通”と形容されるだろう一家。
照雲一家という一番身近な存在と、アキラが怪我をさせたことで父親が家に乗り込んでくる、そんな因縁のある相手を、ヤスさんに一番縁のない”普通”の家族に選んだのだ。
ところでこの本のテーマはなんだろう。
父の愛?
親になること、子であること?
きっと的を外しているわけではないだろうけど、「つながり」と「逃げ場」という言葉が私にはしっくりくる。
”完全”な家族という囲いがなくとも、兄弟みたいな親みたいな祖父母みたいな息子みたいな孫みたいな存在として、お互いに必要としながら生きていく。
家族を知らない、と、失った、と、思っていても、自分にとっても相手にとっても大事なつながりがあって、いつの間にかかけがえのない存在になっている。
それが家族という定義である必要はない。
”普通”の家族でないことは何も欠けていることではない。
そしてまた、そのつながりは、逃げ場として最大の効果を発揮する。
1対1の関係では作り出せない、第三の場。
頭を冷やすあいだ距離をとることや、近すぎると素直に受け取れない言葉、客観的な視点が時には必要だ。
一人で育てあげないといけないと気負いながらアキラと向き合い、
育てる中で逃げ場の存在に助けられ、そのありがたみに気づいたから、
だからこそアキラが家族を持ち、東京で一緒に住まないかと言われたときに、
備後で逃げ場に、最後の最後に帰る場所になると、すっと言葉が出たんだと思う。
とんびが鷹を産む。
ぶきっちょで真っ直ぐなヤスさんと、その息子の出来良く育ったアキラのことを揶揄して周りが囃し立てた言葉。
とんびの想いがなければ鷹は育たない。
海になれ、子供に寂しい思いはさせるな。
親になる覚悟というのは、自身の孤独を受け入れる覚悟かもしれない。